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(小説)牡鹿(12)
(つづき)
 牡鹿の子オロは転びながら、体中を擦りむきながら、逃げた。疲労で心が静まるまで、逃げた。どこを走っているのか、もう分からなかった。
 膝に手をついて立ち止まると、辺りが暗く陰ったように感じた。物音に気付いて顔を上げる。牡鹿の子オロは、その時初めて、自分が緑色の岩のすぐ近くにいることを知った。
 そこには、ぬかるみに足をとられた、見たことも無いような巨体を持ったイノシシが一頭いた。カグラとその愛犬もいた。ショウの国一番の狩人カグラも、このような巨体を持ったイノシシを見たことがなかった。イノシシの体には、牡鹿の子オロから見えるだけで、5本の矢が刺さっている。イノシシは緑の岩を背後にして、戦う姿勢を取っていた。
 巨体のイノシシがよろめいた時である、カグラの愛犬が、飛び掛った。牡鹿の子オロは、巨体のイノシシの目を見ていた。その目は、命の最後の輝き、もはや死など恐れていない者の偉大な輝きを放っていた。
 牡鹿の子オロは口笛を、けたたましく吹いた。
 『待て』『引け』
 の合図だった。カグラの愛犬は、後ろに跳び下がった。それとほぼ同時に、巨体のイノシシは巨大な頭を振り上げた。カグラの愛犬の腹を、イノシシの上に向いた牙がかすめる。巨体のイノシシは、どっと倒れた。
(つづく) 
# by okumennmonaku | 2007-04-12 23:53 | 小説
(小説)少年(12) 
(つづき)
 少年の手紙
「楠井さん、僕は恐ろしい事になってしまいました。ついに、敵が味方にも見えるようになってしまったんです。友達に数学の問題を教えてあげている子の真剣な顔には、彩さんの面影があります。昨日の出来事を、身振り手振りで面白く語る子の口調にも、彩さんの面影があります。みんな、どこか、彩さんの面影を持っているんです。世界中が彩さんで埋まってしまったようです。僕は、みんなを許せるでしょうか。でなければ、僕は彩さんを憎むようになってしまうでしょう」
 
 日曜日には、少年と楠井さんは、よく散歩した。学生街にある、いちょう並木の散歩道を歩くことが多かった。もう、そろそろ、いちょうも紅葉を始めていた。散歩を楽しむ学生達を、ぱらぱらと見かけた。
 楠井さんは、ずいぶんと軽快に歩いた。楠井さんは、少年の楽しげな様子を満足そうに眺めていたけれど、少年の話は、あまり聞いていない様子だった。だから、少年の『楠井さん』と言う呼びかけに、何度もびっくりする仕草をした。
 『そこのベンチに座りましょ』
と、楠井さんは言った。少年は、楠井さんの隣に座った。足をぶらぶらさせながら、少年は、学生のカップルが手をつないでいるのを見ていた。少年は、自分と彩さんが手をつないで歩いているのを想像して、ドキッとした。少年はうつむいて微笑んだ。隣で、クッという、苦しむ声が聞こえた。少年は、そちらに振り向いた。楠井さんが真っ青な顔をして、胸を押さえていた。少年は、一瞬、両手を口にやったまま、動けなかった。地面が揺すぶられるような恐怖を感じた。
 『楠井さん、どうしたんです』
 と、かろうじて、少年はうめくように言った。楠井さんは、ベンチにうずくまった後、
 『大丈夫。大丈夫だから、心配しないで。私はしばらく、ここで楽にしているわね』
 と、言った。
(つづく) 
# by okumennmonaku | 2007-04-06 19:35 | 小説
(小説)少年(11)
(つづき)
 楠井さんの手紙
「貴方の手紙を見ていると、いつも、微笑ましい気持ちになります。そして、清清しい、若い人のような気持ちになります。私は、また一つ、お話をしようと思います。年を取ってしまうと、顔がシワばっかりに成ってしまうけれど、貴方より長生きしている分、いろいろと、お話が出来るのはいいことね。
 それは、私が娘時分のことですよ。私は、自分のいかつい顔を悩んだものだけれど、私と結婚したいっていう人も何人かいましたよ。そして、そのうち、その男の人たちの中に、奇妙な男の人が混じるようになった。その人は、ジャガイモみたいな頭をした、若いのにお腹の出た人だった。その人、26歳だって言っていたけど、40歳ぐらいに見えなくもなかったわねえ。小さな目をして、鼻は泥団子みたい。頬はすごく盛り上がっていて、はち切れそうでしたよ。ある日、私がびっくりしたのは、ワイシャツに、カビが生えていたことよ。そんなの誰だって、びっくりするわよねえ。貴方は、どう思いますか。この人を報われない恋に生きる、哀れな青年だと思いますか。でもそれが、なんと私自身驚いているのだけど、私が結婚したのは、その人なのよ。その人は、こう言ったの。
 『人は、人生において、大なり小なり課題を与えられています。僕は、その課題を甘んじて受けるつもりです。確かに、人に与えられる課題と言うものは、押し付けられたものです。でも、僕は、その難しい課題を前にして、時々、歓喜がこみ上げて来るんです。その歓喜というのが、また、信じられないぐらいの喜びなんです。苦痛が、その輪郭を失って、快楽に溶け込むんです。その時、押し付けられた課題は、自分で選んだ課題となるんです』
 あの人の外見も、あの人にとって大きな課題だったに違いありません。でも、私は、この言葉を強がりだとは思わなかった。あの人のうつむいた笑顔を見ると、そう思えるの。そして、何ものも、あの人を不幸にすることは出来ない事を知りました。彼の幸福は、寂しい幸福です。でも、あの人は、不幸ではありませんでした。自分が不幸だなんて信じませんでした。そして、あの人の、そういう所を、私は好きになったんですよ。あの人は、ずいぶん昔に、死にましたけどね。はい、これで、お話はお終い。貴方は、自分の事を、不幸なんて思っちゃいけませんよ。そうすれば、思いは通じるものです」
(つづく)
# by okumennmonaku | 2007-04-05 23:04 | 小説
(小説)少年(10)
(つづき)
 少年の手紙
「楠井さん、僕は、夏休みの間中、彩さん(あの笑顔の女の子)と、再会できる日を楽しみにしていました。僕にとってそれは、夢のような日々でした。ああ、なのに、今僕は苦しいです。
 僕は気付いてしまったんです。しかし、いずれ、気付いてしまうことでした。それは、彼女が幸福な人であるということです。そんな事は、始めから分かっているはずでした。でも、ある日、彩さんが友達と話しているのを見ていて初めて悟ったんです。僕は、何を見ていたのでしょう。彩さんは、気さくで善良な性格なものだから、友達も多くて幸福そのものです。
 そうです、彩さんは幸福な人なんです。そして、僕は不幸な人間です。僕は彩さんが幸福なので、すごく嬉しく思いながら、一方では、彼女が不幸であったなら良いのにという、暗い考えに苦しめられます。不幸の中で、僕と彩さんが助け合えたなら、という甘い思いが僕を苦しめます。ああ、僕は不幸です。そして、僕が不幸であることが、余計に僕を不幸にしているんです」
(つづく) 

                   (我が家の猫達は、いつも通りです)
# by okumennmonaku | 2007-04-04 21:50 | 小説
(小説)少年(9)
(つづき)
 少年の手紙
「あれから、あの女の子は、よく、僕に微笑みかけてくれます。みんなのトゲトゲしい敵意のある視線の中、彼女の微笑みは何と表現すれば良いのでしょう。僕は断言できますが、僕の幸福は、彼女の笑顔の中だけにあります。僕の幸福は、彼女の笑顔から1ミリ離れると死んでしまうのです。
 ところで、僕は、最近、知らず知らずのうちに、自分の顔が笑顔になっているのに驚くことがあります。楠井さん、僕を西洋の騎士だと思ってください。僕は槍を抱えて、敵の騎士に向かって突進しているんです。でも、敵の騎士は、ケタケタ笑っているんです。それで、ひょっと自分を見ると裸なんです。ああ、僕の驚きは、これと全く同じです。僕は、常に敵に備えていなければなりません。それなのに、ダメなんです。このままでは、僕はどう成ってしまうのでしょう」

 夏休みが、始まった。少年は、自転車で郊外へ出かけて、木陰の下で、楠井さんに借りた本を読んだ。『ジャン クリストフ』。楠井さんの古めかしい、すごく大きな本棚から、少年は迷った末に、この本を選んだ。
 「いい本を選んだわね。今のあなたに必要な本よ。それを読んだら、そうね、また、違う本を貸してあげますからね」
 と、楠井さんは言った。少年は、木陰で、のびのびと本を読んだ。そして、家に帰る途中に、楠井さんの所に寄った。
 少年と楠井さんは、かとり線香を立てて、縁側で話した。罪、罰、良心、魂、生き方について、話し合った。楠井さんは少年に教えるように話さずに、少年と相談するように話した。
 しばらく二人で話し合っていると、楠井さんの妹さんが、お菓子やスイカを持って、縁側に来た。そして、少年の隣に座った。楠井さんの妹さんは、少年のあまりにも世間知らずな青臭い話を聞いて、時々、堪えきれずにクックッと笑った。そのたびに、楠井さんは妹さんに、表情と手振りで警告した。しかし、楠井さんの妹さんは、
 「あら、ごめんなさい」
 と、媚びたっぷりの笑みを浮かべて、楠井さんの警告をかわすのだった。そして、夕焼け空も終わる頃、三人は縁側から立ち上がった。そうして、少年の夏休みは過ぎていった。
(つづく)
# by okumennmonaku | 2007-04-03 21:02 | 小説


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