(つづき)
少年の手紙
「あれから、あの女の子は、よく、僕に微笑みかけてくれます。みんなのトゲトゲしい敵意のある視線の中、彼女の微笑みは何と表現すれば良いのでしょう。僕は断言できますが、僕の幸福は、彼女の笑顔の中だけにあります。僕の幸福は、彼女の笑顔から1ミリ離れると死んでしまうのです。
ところで、僕は、最近、知らず知らずのうちに、自分の顔が笑顔になっているのに驚くことがあります。楠井さん、僕を西洋の騎士だと思ってください。僕は槍を抱えて、敵の騎士に向かって突進しているんです。でも、敵の騎士は、ケタケタ笑っているんです。それで、ひょっと自分を見ると裸なんです。ああ、僕の驚きは、これと全く同じです。僕は、常に敵に備えていなければなりません。それなのに、ダメなんです。このままでは、僕はどう成ってしまうのでしょう」
夏休みが、始まった。少年は、自転車で郊外へ出かけて、木陰の下で、楠井さんに借りた本を読んだ。『ジャン クリストフ』。楠井さんの古めかしい、すごく大きな本棚から、少年は迷った末に、この本を選んだ。
「いい本を選んだわね。今のあなたに必要な本よ。それを読んだら、そうね、また、違う本を貸してあげますからね」
と、楠井さんは言った。少年は、木陰で、のびのびと本を読んだ。そして、家に帰る途中に、楠井さんの所に寄った。
少年と楠井さんは、かとり線香を立てて、縁側で話した。罪、罰、良心、魂、生き方について、話し合った。楠井さんは少年に教えるように話さずに、少年と相談するように話した。
しばらく二人で話し合っていると、楠井さんの妹さんが、お菓子やスイカを持って、縁側に来た。そして、少年の隣に座った。楠井さんの妹さんは、少年のあまりにも世間知らずな青臭い話を聞いて、時々、堪えきれずにクックッと笑った。そのたびに、楠井さんは妹さんに、表情と手振りで警告した。しかし、楠井さんの妹さんは、
「あら、ごめんなさい」
と、媚びたっぷりの笑みを浮かべて、楠井さんの警告をかわすのだった。そして、夕焼け空も終わる頃、三人は縁側から立ち上がった。そうして、少年の夏休みは過ぎていった。
(つづく)